昭和54年01月08日 朝の御理解
御理解 第42節
「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」
信心は結局は自分自身が助かるという事にあると思うのです。自分が助かるというその自分が助かる助かったその心におかげがあるのです。おかげは和賀心にありと、和らぎ賀ぶ心にありというね、信心はね、おかげを受けるという事じなくて、もう私自身がね助かるという事なんです。助かるという事、私自身が助かるという事。ここでは私自身大坪総一郎が助かれば、助かる程、その私の助かりに潤うて、沢山の人達が助かってくる。こちらが助かってもおらずに人が助かる働きなんか起こってくる筈がない。
勿論私が助ける訳じゃないけれども、助かりのいうなら助かるという事を一つの光であるとするならばね、十燭光だけの助かりであったならば、十燭光だに潤うてくる人が助かる。百燭光にも当る様な助かりを頂くとその百燭光の光が輝く。その範囲内に人はその光に潤う事ができるのである。だから問題は私自身が光を頂く事なんだと。だから私が助かる事の為に信心をするのですから、又合楽ではその事を徹頭徹尾と説きますから、合楽の人達の場合には、こういう事は先ずない様な感じがするのですよね。
これ程信心するのにどうしてこういう事が起こってくるのであろうかと、起こってくるのですけれどもね、いろんな問題が。昨日一昨日でしたかね、それこそ熱心に信心ができます、それなのに話を聞きますと、これは家庭問題ですけど、どうしたとじゃと私が言いたいような問題が起こっとるです、そこに。ね、だからこれは一応何とか、いうならばケリをつけなければいけないといったような問題が起きておるわけです。
いうならば、そこはどうしたこっちゃろかというのは信心しておるその人達じゃなくて、その周囲の信心のない人達のこと、あれ程のおかげを頂いておって、もうあんたどんがの信心でおかげ頂いとるのに、それを神様の有難い事もわからずに、あなた達に向かってそういう事を言ったり、したりする事は、もうこれは言語道断だと。というような感じがするんですけれどもね、そこまでは、今日の御理解でいうと、これ程信心するのにどうしてというわけになるのです。
そこで私は、その事をその方達が帰られてから、お願いさせて頂いとりましたら、頂くのがランプのね、光がホヤを取ってあるもんですから、ほんな、ゆらゆら今にも消えるような状態なんです。そしてそのホヤが真っ黒う煙で、あれは毎日ふかにゃいけませんよね。ランプ〈というのは〉。ホヤをきれいにふきよんなさるところを頂くんです。だから、なぜゆらゆらするかでなくて【 】ね、ホヤを取っておるからしかもそのホヤはなんの為に取ったかというと、そういう都度にです。
ああこれは、例えば、夫婦で参って見えますから、こりゃお母さん俺達の信心がちっと間違うとるばい狂うてきたばいというふうに言ってです、磨く事に努めさせて頂いて、そのホヤをはめたら又元の明るさにもどるわけなんです。だからその光の明るさに戻ると言うことはおかげであって、これは私達、どうしてではなくてから、これは私達の信心がちっとばかりおかしゅうなっとるばいと。
毎日参りよるばってんやっぱり、どこか改まらにゃならんところがあるとばいというて、ホヤを拭く気になるという事が助かっとる事なんです。もう今にも消えそうなその光が、又、ホヤをすると又、元のように明るくなる。その翌々日でした。又お参りして見えてから、もうおかげを頂いて、先方の方からそういう働きが起こってきて、円満に話が、まあ嫌憎い事もいわんで済んだ事なんです。
私はだから結局はね、難儀なら難儀というものが信心しとるのに、どうしてこんな難儀な事があろうかとか、難儀な事になっただろうかとか、いう時にはもう信心は留まっておるんだと。先ず自分がわかりゃないけん。これはお母さん俺達の方の信心がちっとおかしゅうなっとるばい、いっちょう本気で磨かにゃいかんのというて、磨きゃもうそこにおかげ。問題は磨くという事、その事自体が助かる事に直結するわけなんです。ね、
それを磨きもせずにそのホヤを真っ黒うなったまましたところで暗うなってしまう そりけん取ってしまえばもう今にも消えそうになった。光はゆらゆらしてしまうという事になるのです。ですから、合楽の場合はそこが説かれ、お互いわかっておるのですから、ね、どうしてという事はまあ言わんで済むのじゃないだろうかとこう思うのです。ね、決して信心のない周囲の人達が、どうのこうのじゃない。
信心のある者自身が、これはまあだ、私達の信心が足りんんのじゃと一心に信心していけばという事は、一心に改まりもする、磨きもするという事になったら、もうそれは、すぐそのままおかげにつながって行くのです。だからそういう事を体得するという事が助かるという事なんです。信心とは。そんなもんだとそれをわからせて頂くという事が、助かっておるという事になる。ね、
真っ暗になるような事が、心の中が真っ暗になるような事が、起こったり、又出来たりする。それをなら、どうしてこういう事になるじゃろかという時にゃ、もうあなたの信心はとどまっておる時だとわからせて頂いて、おかげを頂いていかなきゃいけない。先ずは自分が助かる事だと。その助かりも限りがない。いうなら小さい五燭光ぐらいの助かり、十燭光の助かり、百燭光の助かり、それこそ万燭光の助かりというように、その光が助かりの度合いが大きうなれば大きうなるだけ。
自分の信心としてその周辺に、沢山の人が助かる事に繋がって来る程しのものなんです。昨夜奈良の姪達が親子三人づれでやって来ました。それで私の部屋に兄弟、子供達が集まりましてから、いろいろ話なんですけれども、昨日丁度私がここをはずしておりましたから、或る遠隔地の教会の御信者さん方が、総代さん幹部の方達が何人もでお参りになった。それたまたま丁度、兄弟の四人がそれこそ、士,農,工,商が揃うとったもんですから、応接間でしょう四人でその信者さん方といろいろお話させて頂いて。
その中の何人の方かが合楽にお参りをして、合楽の有難いこと、おかげを受けなさる事、そしてこれが本当の信心だというふうに、外の方にも吹聴した。それで私達もいっちょ参ってみようというて、昨日参ってみえたらしいのです。それでその教会の先生に人にも、とにかく人はこういうけれども合楽での、おかげは本当に素晴らしいし、御教えが素晴らしいというて、その先生にお話をしたとこう先生がいわれる事が、今度の合楽の先生が中近畿にお話に行ったと。
もう少なくとも百名は犠牲が出とるというて、おかげを落しとるというて、だからあんた達も、その百名の中にはいるかといわれた。もう合楽というところはねとにかく、参ってくる皆を餌食にしてしまう、あんたどんもその餌食になろうごとあるんなら参らんのとというような話じゃったと。そして話を聞けまあこんなにも枝に葉がついて、これは良い事悪い事同じでしょうけれども、もうはじめて合楽の悪口を聞いたというのです。だから私は、そりゃほんなこつばいと申しました。
もう本当に合楽の餌食、になるという事は合楽と共に助かるという事なんですから。合楽の餌食になろうごとなかて、遠かからごと見えようごとじゃおかげにならん。やはり合楽の餌食にならなければ、合楽的助かりにはならないです。いうなら合楽の親先生まかせという事は、もうすでに合楽の餌食になっている事です。餌食というとね、大変言葉が悪いけれども、やっぱりそうだよと、問題は人が助からんならんのだから。
というてまあそんな話をさして頂きまして姪達も、あちらの教会でもうとにかく合楽の評判があんまり、良うなかったり悪かったり、大変教会でも助かっておられるらしいんです。そいう話をしてから、引き上げました後で御祈念さして頂いてとりましたら、あれは『柔道一代という歌がありますよね。私は文句はよく知りませんけれども、あれは、姿三四郎の唄でしょう。あのリズムが聞こえてくるのですよ。何とかの頑張れ三四郎なんかといったような言葉があるわけ。
それにね、柔道柔と言うことをね。やわら、柔道という事をね。やわらというのを和(やわらぐ)と頂く、いう字を。柔道という事を〈十〉の道と頂くのです〈十道〉やわら、柔道。今合楽でいっておる事はね、もういわゆる、完璧の信心だという事です。いろいろといつも申しますように、いろいろの信心がありますが、それを本当に極めようとすると、極めようとすればする程、助からなくなってくるわけです。ね。
或る有名な、キリスト教者の先生が自分で一派をなす程しの人がです、亡くなる時にもし自分がキリスト教者でなかったら、もっとましな人間的な生き方ができていたであろうのにと、いうて亡くなられたという話は、これは仏教キリスト教を問わずそういう事にやはりなるのです。極めれば極めようとする程、例えば原罪、罪という事にぶっつかる。又は因縁と言った様な事にぶっつかったら、もう因縁の為にそこから救われるとかそこから脱出するとか出来ないようになっておるのが他宗教のすべてです。ね。
それを合楽の場合には、有難とうして嬉しゅうして、段々有難うなって嬉しゅうなって、しかもそれが愉快にまでなっていくというそういう道が説いてあるのですから。又事実そういうおかげを皆が頂いておるのですから。ね、やはり十全の道であるという事。十全という事はすべてが〈いわゆる〉私が合楽の信心が完璧に入ったというのはその事なんです。その信をなすものは「やわら」です 和賀心です。天地書附です。
ですからその天地書附という事はどういう事かというと今日私がいう、まずは自分が助かる事なんだという事です。そりゃありますよ問題が、信心しよってどうしてといったような事が起こってもです、その時にどうしてといわずに、神様がこうして一段と信心を進めさせて下さるんだなあ。ね。さっきの例をもってみると、これはお母さん俺達の信心がちっとばかり汚れてきとるばい。こいつば清めにゃいかんばいというそこにもう助かりがあるわけなんです。
そういう生き方を徹頭徹尾説くのが合楽理念です。ですからおかげを頂くという事よりも自分がまず、助かるという事、そして「やわら」でありそして柔道の道である 十全の道である。柔道という事は十全という事でもあるでしょうね。とういう程しの信心を皆さんは頂いておるわけなんです。だから本当にそこにね、そうだとわかる信心を頂かなければいけませんです。
だからね、どうしてといったような事が起こってくる事によって一段と信心を高めていく 一段と助かりを増していく、いうなら一段と五燭光から十燭光になり、十燭光から百燭光になるような、そういう働きがその問題なんです。もう外に助かりようがない 助からんはずがないわけだから、ね、それをどうしてという自分以外の者のせいにしたりするところにです、自分も助からん、人も助からん。そこに問題が問題として残る事になるのです。問題、即そのおかげで、次の信心に飛躍が出来る。ね、
結局、なら、夕べの話じゃないけれども、合楽の事を箸にも棒にもかからんように悪口をいうという事もです、悪口をいわれるという事は、おかげなんです。この事ではいろいろ頂きましたけれども、話が長くなりますから話をおきますけど、その悪口をいわれておる時,どうすなそんな悪口をいうかといい訳する事もなあんもいらん。 それがおかげなんです。そしてですね、これは悪口をいわれるとか何とか、昔からいわれるように火の気のないところに煙は立たんと申しましょうが、例えばそうですね。
舅と姑、嫁と姑といったような場合でもですね、結局、姑がね嫁さんの悪かとこだけに目をつけとるわけですよ、ね。例えば、家の嫁は例えばもう、人間はあんまり悪うわなかばってん、のうつだこうしてどんこんされんちいう人があるんです。だからそののうつ高い事は確かによくない事ですから、少し慎んだらいいわけです だからその本当なところに目をつけとるんです。悪口をいう時には。本当ですよ。
例えばねそれを御心眼に頂いたんどすけれど、鏡山なんかのお芝居なんかに、岩藤とお初とか、岩藤と〈おめい〉とかにねそのやはり悪かところに目をつくるんですやしろば、そしてそれを突いたり刺したりするようにしていうわけです。だから悪口を言われた、そこが確かによく詮索してみると、そこが自分の悪かとこです。ね、だからこれは本当に悪口をいわれるという事は、自分が一段高められる事の為、それだけじゃないですけれども、素晴らしい事なんです。おかげです。
ですからね、いよいよ自分が助かっていく事の為には、なら、悪口はしっりかいうてもらうがいいです。そして自分が改まっていったらよいです。それが又、いよいよ限りなく大きくなっいく元にもなるわけですからね。問題は自分が助かる事に焦点を置いて、信心をさせて頂く。おかげを頂くためではない。おかげはいやといわんでもこちらが助かれば助かるだけのおかげはついてくる。だから楽しゅうなってくる。ああ、自分が一段改まりゃ又一段おかげが大きくなっくる。
一段大きくなれば一段自分のいうならば、明るい世界が広がっていくような道理なんです。自分が助かると。だから合楽の場合は、恐らく合楽の場合はどうしてこういう事が起こってくるであろかというような事は言えないし、おかしゅうてお取次も頂けんごとある。というけれどもやっぱり、心落ちつかないからお取次頂く。そして気付かして頂く事はほんなこつこりゃこうじゃなかった。こりゃホヤをいっちょきれいにふかにゃならんと気付くなですからね。
だからね、それをそういう時に自分というものを磨く事やら改まる事に焦点を置く事なんです。だからあんまり合楽の人達の為には,熱心に稽古をしておる人達の為にはこの御理解はもう必要じゃないごとなるけれどもです、ね、やっぱりこれをみてホッと気付いて、あっちじゃなかった、こっちじゃったという事にわからせて頂く程度に今日の御理解は皆さん聞いて下さったらいいです そして結局は自分が助かる事の手立てを神様が次々と出して下さるんだという頂き方をしますとその事のおかげでという事になる。
それがそのまま例えば、はあおかげおかげでいきよるといつの間にかこちらが増長してしもうて、いわゆる慢心が出てそして俺達が信心しよるけんこうだと言った様な事になるわけ〈です〉。だから限りなく自分が助かろうという事に焦点をおいての信心。そういう信心をしていけばそこからおかげが受けられるという事は、そこから一段と信心を高めていく事ができるという事にもなるですね。
どうぞ。